社長のエッセイ2

● 長編? 自伝的会社案内  その壱『私の会社』 〈胎動編〉

 私の会社は 昭和25年に 先代秋山貢が、茨城県北相馬郡取手町大字台宿乙19番地(*現茨城県取手市東3丁目8番12号)の 現在の場所に『秋山自動車修理工場』として創立いたしました。当時は、終戦後の混沌とした時代だったそうで 取手の町の中の乗用車として登録されていたクルマは カタクラショッピングプラザの母体である 片倉さんの所有車と 宇田川グループ創立者の宇田川さんの所有車2台だけだったそうです。だから、先代は自動車修理とは名ばかりで、バチカルという農器具の修理ばっかりしていたそうです。

 先代の 私の父は”職人”という名前がピッタリの頑固者で いつも コツコツ コツコツと、地味な仕事をしてました。おこると おっかない親父でしたけど、とってもあったかな人でした。私の小学校の 夏休みの宿題の工作部門はほとんど親父が作ってくれました。(当時の担任の先生方は ほとんどわかっていたみたいです。)親父が残してくれた物の中に、取手小学校の庭に置いてある 『はばたきの像』(羽をもがれたニワトリみたいな コンクリートの像)があります。つい この間までは 庭の片隅に置いてあったのを憶えているんですが、現在(*平成13年9月23日)取手小学校が改修工事中みたいなので、終了したら 見に行ってみようかと思っております。 私の母親の方は和裁の腕を持っていましたので、お客様から着物の仕立の注文をいただいて 生計の足しにしていたようです。私が物心ついたころには、何人かのお針子さん達がいて ゲラゲラ笑いながら 楽しく仕事をしていたみたいです。

 小学校のころの私の日課は、朝に道路(*当時の国道6号線、現在の県道 東 取手線)に向いている仕事場の雨戸を開ける事でした。当時は 小森コーポレーションさんも井野団地もありませんでしたので 雨戸を開けると 筑波山がよく見えました。あと、たまに雨が降ると家がすぐに水たまりになって床下浸水になり、ドブ板が流れ去ってしまうので、よく堀に拾いに行ったのを記憶してます。親子3人 貧しいながら楽しい毎日でした。(申し遅れましたが、私は父が42歳、母が40歳の時に生まれたひとりっ子です。)あの当時の楽しいおもいでの中に 風邪をひいて学校を休んだおもいでがあります。風邪をひいて 病院に行くと、たいていお尻にペニシリンの注射をされ、熱さましに サイアジンという薬を飲まされました。それが何で楽しいかというと 風邪をひいて寝込むと なんとバナナが食べられるときがあるんです。「何だ バナナか」とおっしゃる人があるかもしれませんが、当時の私にとっては 盆と正月(あれっ 正月にバナナあったっけ?)ぐらいしか見た事の無い、幻の果物だったんですから。だから、ペニシリンぶたれて 痛い思いをしても、バナナが食べられるという事の方が 大きな 今考えると、とってもささやかな楽しみだったんです。

 私が中学校のころ、まだまだ 我が家は貧乏でした。中学校3年生の昭和39年は東京オリンピックの年で 日本中が高度成長の渦に巻き込まれていたころでも 我が家にはまだテレビがありませんでした。(ちなみに、我が家にテレビが入ったのは 私が高校一年生の時、円谷プロの ウルトラQシリーズを見て 夏木陽介主演の「青春とは何だ!」を楽しみに見てました。岡田可愛のチャキチャキのおてんば娘ぶり、土田早苗の清純さ、あと名前がでてきませんけど 現加山雄三夫人のかわいさ、男子高校に通っていた私には とっても魅力のある番組でした。たしか原作は 現東京都知事の 石原慎太郎さんだったと思います。)その頃から仲良しだった 取手市新町の 伊吹行雄さんとは 今でも家族同様のつきあいをしてもらってます。どっちが金魚で どっちがウンコか知りませんけど・・・。”竹馬の友”というのは ほんとにいいもんですね。

 そんな こんなで 何の苦労も知らずに育ってきた、中学時代・高校時代の前半でした。前半でしたと書いたのは 私が高校2年生の夏に 我が家の屋台骨を揺るがすような、いわゆるターニング・ポイントが訪れたんです。(つづく)

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