社長のエッセイ3

● 長編? 自伝的会社案内  その壱『私の会社』 〈胎動編〉 続

 それは、親父が脳梗塞で倒れた半身不随になってしまったんです。寝たきりじゃなかったから まだ助かったんですけど、本当に困りましたよ。なにしろ、父ちゃん、母ちゃんで細々とやってきた自動車修理工場ですから、ろくな貯えも無いし、代わりに働いてくれる職人さんを雇える状態じゃなかったんで 明日からの生活をどうしようかと真剣に考えました。高校中退しちゃおうかと思いましたけど 「お前、高校だけは絶対に卒業しなくちゃだめだよ。」と言って 母親が どっかからお金を 四面工面してきてくれて、なんとか急場をしのぎました。しかし、そんな状態でしたから密かに期待していた 上の学校への進学や、卒業してからやりたかった夢も、方向を変えなければならなくなったのは 事実です。そんな訳で、高校生の後半は、家の手伝いもしておりました。

 昭和43年の春、高校を卒業し いよいよツナギを着て 家の手伝いを始めましたが、理想と現実は大違い!片や 工業高校を出ただけで、理論しかわからない ケツの青い若僧と、片や第二次世界大戦では霞ヶ浦で 技術下士官として 零式戦闘機(*通称 ゼロ戦)の整備までしていた人間との差は一目瞭然じゃありませんか。そこに持ってきて いくら回復してきたとはいえ、自分の身体が思うようにならないところに持ってきて 血を分けた息子の技術がものすごく頼りないわけですよ。イライラしてもしょうがないじゃありませんか。ですから 「こんなこともわかんねぇのか!」「この音聞いてわからないのか!」 もうボロクソですよ。しまいにゃ ドライバーや検査ハンマーで叩かれちゃうんですから。本当にまいっちゃいました。

 そのうち 私は考えました。「こんなことばっかり 続けていたら、俺は一生親父を追い越すことができないぞ!」(馬鹿ですよねぇ 親なんていうのは、絶対に追い越したり 追い抜いたりできない存在なのに、あの当時は本気で張り合うつもりだったんですから。) 「よし、親父が自動車修理のプロなら 俺は親父のできない販売のプロになってやる。」 ちなみに、私の親父は とっても がつくほど 商売が下手でした。物を売ったり (ほとんど車を売ったりしたことはありませんでした) 直したりして、集金するのができないんです。車を修理したお客さんが、修理車を取りに来て「親父さん、今ちょっと金ねぇんだよ。」 「いいよ いいよ 都合のいい時で。」部品屋さんには お金払わなくちゃならないのに掛け売りしちゃうので、我が家の家計は年がら年中 ピーピーでした。 こんな事もありました。 修理車を取りに来たお客さんが酔っ払っていたんです。そしたら、「酔っ払いには クルマは渡せない。」そう言って親父はクルマのキーを渡さないんです。 さあ、お客さんが怒りました。「てめえのクルマの修理代払って、てめえが乗っていくのに どこが悪い!」 それでも 渡さなかったです。それで、そのクダまいているお客さんを助手席に乗せて、家まで送っていって 自分で歩いて帰ってきました。融通がきかないっていうのか 頑固この上無いというのか、正義感の強い 私の大好きな親父でした。

 話は 元に戻りまして、いよいよ 私が販売に手を染めることになりまして、ホンダ車を売り始めることになった経緯や、当時の楽しかったり 苦しかった話は 次の章『私の会社』〈立志編〉にと続きますので、少々のお時間を賜りますよう、御願い奉ります。


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