社長のエッセイ4

● 長編? 自伝的会社案内  その弐『私の会社』 〈立志編〉


 〈胎動編〉では、我が家のルーツをご説明いたしましたが、今回の〈立志編〉では 何故 私がホンダ車の販売を始めたのか、また その頃の時代はどんな時代だったのかを ご案内してまいります.
 『自動車修理じゃ 親父に絶対にかなわないから こりゃクルマを売って 一発親父を見返してやらなくちゃいけねえな.』私はそう考えて 親父に言いました.
 『父ちゃん、これからの時代に 修理のお客さんを増やすのは クルマを売んなくちゃだめだろうから 俺がクルマ売っから とうちゃんはそのクルマしゅうりしてくんねえか?』
 そしたら親父が 「これからは お前ら若いものの時代だから 好きにやってみろ.」そう言ってくれました.
 そこで 二人でどのメーカーのクルマを売ろうかと考えたんです。昭和43年当時は クルマと言ったら 『技術のニッサン 販売のトヨタ』でしたから 一番最初にトヨタかニッサンの協力工場の看板を上げようかと言う意見が出ました。しかし、トヨタとニッサンは大きすぎて 私のところの工場なんかより デッカくて立派な工場がゴロゴロしているのが実状でしたので 仮にウチなんかが看板を上げたってノミのションベンのようなもんだし また トヨタとニッサンのクルマを売ったって みんなセールスマンの成績になるだけで ウチのお客さんにならないじゃないですか だからやめました。
次に、白羽の矢が立ったのが親父が懇意にしていた人がいた 当時 画期的なロータリーエンジンが売り物だった(あの 初代のコスモスポーツなんか 今見ても近未来的なクルマですよねェ)マツダです。それでマツダの営業所に親父と二人で出かけていったんです。そしたら そのときに対応してくれたマツダのえらい人?の 涙がチョチョギレルような横柄な対応の仕方にはビックリしました。私みたいな若僧はともかく この道40年のベテランの親父までトーシロ扱いですよ。おもいっきり腹立って帰ってきました。(もしも、あの時にマツダの対応がよくて ウチでマツダの看板を上げていたら 現在の日本における自動車業界の勢力分布図が大きく変わっているんじゃないのでしょうか? そんな訳は絶対に無いでしょうねェ)
トヨタ、ニッサン、マツダの他に 親父の知り合いのいる会社はトラック関係で、日野だのいすゞだったんです。それでも、『日野コンテッサ』や『いすゞベレル』とか『いすゞベレット』の看板を上げるのには 思いっきり抵抗がありました。だって 先がまったく見えないんですョ。今でもそうですけど あの当時だっていすゞのクルマ〈トラックを除いて〉を見かけるなんていうのは奇跡でしたし、『日野コンテッサ』(テスタロッサじゃありませんからね 念のため)なんて、RRのクルマなんですけどうわさにしか聞いたことが無かったんですから。結局 親父の人脈による看板上げオペレーションは見事に頓挫しました。ここで 私の意見がいくらか陽の目を見るようになりました。(つづく)

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